エッセイNo12

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 ・・・ 牧師エッセイNo12 ・・・

NO.12

 NHKの人気ドラマで時々リバイバル放送される「大草原の小さな家」がある。これまで、どれだけの多くの人々に感動を与えてきたことであろうか。原作はローラ・インガルス・ワイルダー(1867-1957)で半自叙伝的小説シリーズである。

 

主人公であるこの家族の父親役を演じた役者は、マイケル・ランドンという米国の俳優、映画監督、脚本家である。彼はこの作品のプロデューサーでもあったようだが、何よりもとても素敵なクリスチャンで、ドラマ自体が非常に信仰的な土台でつくられているということで知られている。

 

こんなエピソードが残っている。ある時彼が別の現場で舞台俳優としてリハーサルをしていた時のことである。その時、付き人であり弟子の一人が、「先生、靴の紐がゆるんでいますよ」と言ったそうだ。

 

「ありがとう」と言うと、靴の紐をぎゅっと縛った。ところが、いよいよ本番が来ると、またそれをわざわざ緩めたというのだ。そこでそれを見た他の人が、「先生,先生はさっき靴の紐を締めて、どうして今緩めるんですか」と聞いた。

そこで、ランドンさんは答えた。「実は、自分が出る場面は知ってのとおり、疲れ果てて、もう長い旅をして、倒れそうになっているところだから、靴の紐がぎゅっと結ばれていると、その場面にふさわしくないんだよ。だから、さっきのように緩んでいる方がいいんだ」と。

 

「だったら、どうしてさっきは締められたのですか」 「いや、それは言ってくれた人に対する感謝だもの。だからあの時、締めたんだよ」。そこで、将来名優になりたいと思っていたこの青年は、とても感動した。

「先生、どうしたらそういうようになれるのですか」と思わずこう聞いたそうだ。

 

「僕は以前、人から何か少し言われると、ムカッときて、すぐ自分の小さな世界を守っていたものだった。何か言われると自分の存在までダメだと言われているように思えてね。そういう時には、受け入れられないどころか、こうだ、ああだと言い、かつては全くゆとりがない人間だったんだよ。しかし、僕は小さな時から教会に行っていたので、イエスさまと一緒に生きることを学んでいたんだ。

イエスさまは、いつも共にいて、この私を慰め励まして、たとい誰かから責められても、私を責めないで励ましてくださる。そして、無尽蔵の知恵や富やエネルギーを与えてくださる。このようにキリストと一緒に生きるようになったら、どんな状況も「ありがとう」と言えるようになってね。だから僕にとっては、忠告してくれた時も「ありがとう」という感謝しかないんだ」と。

 

これを聞いた青年は、本当に感動してしまった。そして、自分もそのような人生を生きたいと思い、彼は映画俳優や舞台俳優になるのではなく、牧師になったそうである。

 

人間のことをギリシャ語で「ペルソナ」というが、その意味は「役者」である。人間は悲しきかな旅役者のように演技しながら巡り歩く限界を背負った存在なのだ、とでもいうのであろうか。

 

けれども、「大草原の小さな家」のお父さんを演じた役者ランドンさんは、その画面の父親以上に魅力的に生きた。後にガンが発病し余命残り少ないことがわかったランドンさんは、そういう自分をあるがまま受け入れ神と人との感謝しながらその人生を最後までキリストを信じる信仰によって全うされたのである。

 

人の強さというものは、どこから来るのであろうか。それは、自己存在の強さから来る。この強さは、決して人間そのものが生来持っている強さではなく、体験や学習で身につくような強さでもない。人間を超越した存在、人間の存在証明でありその根源者である創造者としての神による強さのことである。

 

ランドンさんにとっての自己存在の強さとは、なんだろうか。

 

   人間関係における「負ける強さ」を持つこと。人が誰かの言葉に謙虚に耳を傾けるためには、自分が神の愛によって潤されていること。また、その愛の充分さによって、ゆったりと余裕を持っていることが必要ではないだろうか。誰であろうと、どんっと受けとめていく強さがあると人に負けることができる。人に敢えて負けることができる人が本当に強い人なのである。

 

   どうにもならない「現実を受け容れる強さ」を持つこと。人が突然のように死の宣告がなされたとするとどうであろうか。当然のように心揺さぶられて苦悩するに違いない。筆者も同じだと思う。

   しかし、一瞬二瞬と内面の深いところで震撼させられ心乱れたとしても、もし、

人がそのままの現実を否定し拒否することなく、全能者の愛の御手にすべてを明け

渡して委ねることができるとするならば、何と幸いであろうか。

 

 おそらく、人生の極限の名優ランドンさんは、聖書の神は決して失敗しないことを信じていたのだと思う。

 人は、よく自分の人生が思い通りのことが起こらないとこう言うのではないだろうか。

 

 「神も仏もあるもんか」

 「神などはいないのだ。騙された」

 「てるてるぼうず てるぼうず あした天気にしておくれ 

聞かぬば くびをちょん切るぞ」etc・・・

 

 聖書の神は、私たち人間の願いや求めを都合よく聞いてくれるアニメドラえもんの四次元ポケットのようなものではない。神は私たち人間の奴隷ではない。

クリスチャンになっても死ぬ、クリスチャンになっても病気になる。受験に失敗したり、失業したりもするかもしれない。しかし、はっきりと聖書から示されることは、全知全能の神は、愛であり真実であり、決して失敗しないということである。