礼拝R40327

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 2022年3月27日 四旬節第5主日礼拝 題:「我は復活の主を信ず」
聖書箇所:コリント人への第1の手紙15章20節 説教:丸大勝牧師
かつて民放の日曜洋画劇場で「偉大な生涯の物語」というキリストの生涯を描いた史劇映画がリバイバル放送されたことがあった。その時、解説者の淀川長治氏が、「さぁ、キリスト信者にとって悲しみの出来事である十字架にキリストがかけられます。彼は死んで墓に葬られます。しかし、三日目によみがえるのです。そんなことはあるはずありませんねぇ。」と。信仰のない淀川さんはそのように軽く片づけてしまった。しかし、信徒信条で、「三日目に死人のうちよりよみがえり」と告白されている(マタイ27:57-28:7)。マグダラのマリヤと他のマリヤたちは、復活の朝となったその日、イエスのご遺体に香油をぬり世話をするために墓に出かけてきた。「墓を見にきた」(1節)とは、そのことを意味する。彼女たちは、絶望と悲しみゆえに墓に泣くために来たともいえる。人の人生は墓で終わる。死で終わる。それですべてが終わるのである。子どもの頃、仏式の葬儀に親に連れられて参列した折、まわりの大人たちが、「死んでしまえばおしまいじゃ」と何度も言っていたのを聞いたことがあった。そのとおりだ。私の長兄も26歳で亡くなってしまった。しかし、主イエスの場合は違う。彼は十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだられた。それは終わりなどではなく、かねてから預言されていたようにその続きがある。「キリストは眠っている者(死んだ者)の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(20節)。主が陰府に下られたのは、死を滅ぼすためであった(26節)。主は死によって私たちの罪の代償をすべて支払ってくださったのみならず、復活により死のとげを全部抜き取られたのである(55節)。確かに死の現実はある。信者になっても死ぬ。しかし、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)とあるように、主イエスの贖いと救いの福音をこちらの人間の側が、しっかりと受けとめ、信じて受け入れていくならば、私たちは、復活の主に出会い永遠の生命を我ものとすることができるのである。何十年も前のことだが、神学校の恩師の娘さんが小学生の頃、病のため召された。この子はご両親の深い愛情により天国の希望を持って精一杯生き抜いていった。最後の一言葉、「イエスさまを信じない方、お気の毒ね」と。