礼拝R40403

このエントリーをはてなブックマークに追加
 2022年4月3日 四旬節第6主日礼拝 題:「御座の右に在す主」
聖書箇所:へブル人への手紙12章2節 説教:丸大勝牧師
「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」とある。このことを使徒信条では、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白している。これは、私たちの主が全人類に対する救いの御業を成し遂げられ、勝利者として帰るべき所に戻られたことを意味している。そして、父なる神の右に座しておられるということは、鎮座してそこに静まっているのではない。主は復活の生ける神として今も働いておられるのである。主は過去のお方ではない。釈迦もムハンマドも教えは残っているかもしれないがその存在は過ぎ去りし人である。それゆえに、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」という言葉がつながってくる。主が生きておられるので、「仰ぐ」のである。さて、もう少し「神の右に座しておられる」ことについて学ぼう。かつてユダ王国の預言者イザヤは、主が神殿において高くあげられみくら(王座)に座しておられるのを見た。この頃、ユダの王ウジヤ王が死んだ年であり、52年間の安定した時代は去った。それは危機的状況であったといえる。この時、イザヤほど事態の深刻さを感じとっていた人は他になかったことだろう。しかし、イザヤは地上がどのように変化しようが、変わらないお方を拝するのである。主は時代の変遷においても、絶対者、権威者、支配者として、たとい激震の年であろうが、王座に着座しておられたのである。私たちは、このお方を仰ぎ見るならばたいへんな事態になったとしても驚くべき平安を得ることができるのである。初代教会においてステパノの殉教の記録がある(使徒7:54-60)。彼はエルサレムの全議会を前に、宗教指導者たちに対して臆することなく、歴史的長きに亘って神に言い逆らうイスラエルの罪を糾弾した。人々は激しく怒り歯ぎしりした。一方、ステパノは聖霊に満たされて、天を見つめていると神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのを見た。「座しておられるお方」が、ここでは立っているということは何を示しているのであろう。ステパノは地上の法廷で裁かれようとしている。誰も彼を弁護する者はいない。そこで、天と地の審判者が着座しておられる所から弁護者として立ち上がるのだ。