礼拝R40410

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 2022年4月10日 棕梠の主日礼拝 題:「全面が暗くなって」
聖書箇所:マタイによる福音書27章45~56節
いよいよ受難週の記念の時を迎えた。「ホサナ!」と歓呼の声をもってエルサレムに迎えられた主は、恐ろしい霊的戦いのゲツセマネの園での壮絶な祈りを経て、金曜日の午前十字架にかけられた。そして、正午に至った時地上全面が暗くなって、午後3時に及んで、主は大声で叫ばれたのである(46節)。罪なき神の御子がどうしてこのような叫びをあげられたのか。肉体的精神的苦痛のためか。確かにそれもあろう。しかしそれだけではない。これまで、主は父なる神と共におられた。どんな時も一緒であられた。そこにはいつも平安があった。しかし、ここに至り太陽は光を失い、3時まで真っ暗だったのだ。この状況は、神の御子が救い主としての大いなる使命を果たすために、父なる神から捨てられたことを意味している。アダム以来の全人類の罪に対する神の怒りのみが主イエスお一人にのしかかっていたのである。この地獄の苦しみこそ主イエスをしてこの叫びをさせたのである。またこれは、詩編22:1「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」の聖句暗唱でもあった。このダビデの預言的詩篇は、「今我により成就なせり」という宣言でもあったのである。この叫びによって三つのことを教えられる。①「罪なき神の御子が、人類の罪を確かに背負われたこと」。罪は人と人の交わりをさき、神と人との交わりをさく。しかし、主イエスの場合は常に父と一つであった。そのキリストがここで捨てられるのである。この地獄の苦しみに全人類の罪を背負われた御姿を見るのである。第一ペテロ2:24。②「罪の赦しと救いの確かな保証となったこと」。このことは、神の法の実行であった。聖なる御子が罪そのものとなられたゆえに、キリストを救い主として信じる者は、確かに罪赦され、罪なき者とみなされるのである。神の義が付与されたことを意味している。第二コリント5:21。③「キリストを信じた者はもはや捨てられることはないこと」。主が私たちに代わって神に捨てられたのであるから、私たちはもはや捨てられないのだ。これから、どのような厳しいことが人生に起こったとしても私たちは、「神に捨てられた」などと決して言わないようにしようではないか。I will never leave thee.(私は決してあなたから去らない。決してさよならしない。)と主イエスは言われた。