礼拝R40417

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 2022年4月17日 イースター礼拝 題:「主を見る人生」
聖書箇所:詩篇16篇 説教:丸大勝牧師
16世紀に堕落したカトリック教会に対して命がけで宗教改革を行った人物といえば、マルチン・ルターである。そんな偉大な功績者であった彼も人間的なところもあった。モンスターのような敵の存在に心くじかれて部屋に閉じこもっていた時があった。そこに喪服を着た妻が現れた。そして、「あなたの神が死にました。だから喪服を着て神の葬式をするのです」と言ったそうな。復活して今生きておられるのに敵を恐れて怖気づくとは何事か、とルターは悔い改めて自らを鼓舞して立ち上がったという。ミクタムの詩16篇は、黄金とか秘密という意味がある。キリストの復活の預言でもある。使徒ペテロが初代教会誕生の際に引用した言葉としても知られている。今日特に注目したい御言は、8節「わたしは常に主をわたしの前に置く」である。ペテロは意訳して、「わたしは常に目の前に見た」(使徒2:25)と言った。もし私たちが主イエスが復活して今も生きておられることを知っておりながら、なおルターのように意気消沈したように「しょぼん」とした生き方を続けているとするならばどうであろう。真に残念なことであろう。復活の主を信じるとは、お互いの人生において「常に主を前に見る」ことが肝要である。「置く」という意味は、そこに私たちの自分の意志がある。私たちは人生において主をどこに置いているのだろうか。①後ろに置く。いつも自分が先で自分のために神があり、神は自分を助ける存在にしか過ぎない。②上に置く。神を祭り上げてしまうこと。自分の生活の真ん中に迎えないこと。生活化しないことである。③下に置く。埋没すること。④横に置く。相対的な捉え方をして聖書の神を一宗教の神にしてしまうこと。これではいつまで経っても信仰にはならない。⑤前に置くとは、私を導く方、私の従うべき方とすることである。同時に自分は後に下がることである。主を人生の前に置く時、私たちは「いのちの道」を示される。一生懸命生きていてその行くべき道を知らないとするならば、こんな空しいことはない。私たちの人生の一歩は小さな一歩かもしれないが、そこに意味があれば前進そのものである。決して無意味な一歩ではない。そのように復活の主を信じる人生には、目的がはっきりしているので、心は楽しみ、魂は喜ぶ。身も安らかなのである(9,11節)。