礼拝R40424

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 2022年4月24日 復活節第2主日礼拝 題:「再臨のキリストを信ず」
聖書箇所:マタイの黙示録22章12~16節 説教:丸大勝牧師
「かしこより来りて生ける者と死にたる者を審きたまわん」とある。これは、最後の審判をなさるキリストを告白している。黙示録の最終章に三度繰り返されている言葉がある。「わたしはすぐに来る」(22:7,12,20)である。これに対して教会は、「主イエスよ、きたりませ」(17,20)と答えるのである。中学の頃から英国の歌手クリフ・リチャードが好きであったが、信者になってから彼の「JESUS」の歌詞に感動した。「イエスよ、救ってください」と繰り返されるのである。今の時代こそその叫び、祈りが必要ではないだろうか。ウクライナの事を日々ニュースで聞き心引き裂かれてしまうのは私だけではないだろう。残酷な戦争犯罪が罷り通る。誰も地球家族の視点はない。各国も第三次世界大戦を恐れてウクライナの必要に応えることができないでいる。また自らの無力にも愕然とする。やはり人間は罪人であり罪人は罪を繰り返す以外にないのである。もはや人間に期待することは何もないのだろう。平和な時にはもてはやされるヒューマニズムもこの現実の前に何の役にも立たない。今日、世界は切羽詰まっているのである。しかし、教会は違う。祈る相手を持ち、祈りをすることができる。 「主イエスよ、救ってください」。これはある意味で生みの苦しみであろう。ローマ8:18-25に初代教会における苦難についてパウロが語っている。①被造物全体が苦しんでいる(19-22)。自然界も救い主の到来を待っている。②信者が苦しんでいる(23)。完全なる贖いのために、ピリピ3:21にあるように、「わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる」のである。まさに現在地球そのものがうめいているのだ。今こそ、「われらの主よ、きたりませ」(第1コリント16:22)と祈ろうではないか。再臨のキリストは、生ける者と死にたる者を審かれる。これは厳かな最後的キリストの審判であり、ここですべてが決定されるのである。主によって判断されることはもはや変更されることはない。しかし、14節にあるように、キリストの血潮により罪きよめられた者は恐れることはない。その人は、「さいわいである」とある。このことが確信されるならば、私たちにとって再臨は裁かれてしまう恐怖の時ではなく最大の喜びの時となる。さあ、私たちにとってどうであろうか。