礼拝R40515

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 2022年5月15日 復活節第5主日礼拝 題:「聖霊を信ず②」
聖書箇所:ヨハネによる福音書7章37~39節 説教:丸大勝牧師
「我は聖霊を信ず」。18歳の1974年秋、直接献身の志を得た。その年のクリスマスに受洗し所属教会(鴨島兄弟教会)で訓練を受けることになったのだが、その前後に日本伝道隊主催の四国聖会に参加することになった。特別講師は、G・F・バックストン師(B・F・バックストン師のご子息)であった。伊藤栄一師のご夫人三木子おばちゃんが、こう言われた。「勝さん。あの先生のお説教はなかなか聞くことができるものではないので、難しいかもしれしないけどしっかり聞いてくださいね」と。ゴズデン師の通訳での日本語の説教であったが、やはり難しかった。しかし、キリスト教の奧義を語っておられることは何となくわかった。実は、この内容が聖霊についての教えであったのだ。三木子夫人は、早くして召された時、甥御さんであられた岩井清師が、「叔母は、神の恵みに渇く人であった」と語られたことを印象深く覚えている。これは、聖霊体験を意味していた。「だれでもかわく者は、わたしのところに来て飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(37,38節)と主は言われた。この日、ユダヤの三大祭の一つ仮庵の祭の最後の大聖祭当日であった。先祖たちは、出エジプト後、荒野の40年間を過ごし大変な体験をした。渇きと飢えに苦悩したのである。だが民の叫びの祈りに神は聞かれ渇きと飢えをいやしてくださった。ユダヤ人は一週間仮小屋に身を置き過去を偲び記念としてこの期間を過ごすのである。そして、やがてエゼキエル書の幻のように、「この川の流れる所では、すべてのものが生きる」(47:9)ようになることを待つのである。しかし、主イエスは、当時の群衆を見まわし宗教的営みをしてはいるが、内側にいやされていない魂の渇きがあることを見抜かれたのである。そしてそこにはその解決はないことを思い、「渇く者は、わたしのところにきて飲むがよい」と叫ばれたのである。これは、「いつもわたしのところに来て、いつも飲んでいなさい」(現在形動詞)ということだ。長い間、ユダヤ人はこの聖霊の水を待っていたのだが、祭の中に儀式の中に聖霊はおられなかった。今やキリストの十字架の死と復活と昇天のゆえに聖霊は下られた。これが神の栄光であり信じて受けるものなのである。