礼拝R40619

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 2022年6月19日 創立記念主日礼拝 題:「罪の赦し」
聖書箇所:イザヤ書43章21~25節 説教:丸大勝牧師
当教会は今年創立88周年を迎えた。信仰の源流は、B・F・バックストン師と柘植不知人師に遡るが、正式にキリスト伝道会「活水の群」に加入したのは、2000年(H12年)のことである。当教会としては長らく二代目牧師福澤友男師が教職の友好団体であった「基督伝道会」に加わっていたが、現在の群が伝道団体として新たに1991年(H3年)に設立されたことを機に準備を経て9年後正式に加入したのである。群の創設者柘植師のメッセージとして「人生四大問題の解決」というのがある。トラクトとして用いられてきた。「人生には数多くの問題があるが、大きく分ければ、生活、病気、罪、死の四大問題である」という。今回は「罪」について使徒信条の告白に合わせて見ていきたい。「我は罪の赦しを信ず」とある。これは、キリストの恵みによる罪の赦しのことである。聖霊は私たちに働き、罪と救い主を指し示し悔い改めに導き、不信仰に征服されていた者から信仰が与えられて罪の赦しに至るのである。また、バプテスマの際に与えられる赦罪の宣言と解し、バプテスマへの信仰告白と見る。さらには、これを聖餐式と解するならばサクラメントへの信仰告白でもある。改めて神により罪から赦されることがどんなに感謝なことなのか確認しよう。「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」(25節)。共同訳では、「背きの罪を」「あなたの罪を思い起こすことはない」とある。これは直接的には、イスラエルの背信と罪である。何回も繰り返されている。それほどひどい状態であったのだ。しかし、それにも拘わらず、神は明白に罪の赦しの宣言をなさるのである。それはイスラエルの側の何かによるのではなく、「わたし自身のために」である。「わたしこそ」「わたし自身のために」とは、その強調であり罪の赦しの基盤が全く神のうちにあることを明示している。それゆえに、神は「恐れるな」(43:1,5)と繰り返し語られている。今日、普遍的な意味で主の十字架により罪の赦しが与えられている。